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1582年の春、13歳となった忠政は信長の小姓として出仕する。しかし先輩小姓にからかわれたのに腹を立て、その男の頭を叩いたのを信長に見られ「忠政は幼いのでまだ小姓は無理だ」との理由で金山城に返された。1582年6月2日、本能寺の変がおこり、主君・信長や蘭丸ら3人の兄が明智光秀に討たれてしまうが、忠政は金山城に戻されていたおかげで難を逃れている。
【突き落とされる】信長死後の織田家では、信長の次男・織田信雄(後ろ盾は羽柴秀吉)と三男・信孝(後ろ盾は柴田勝家)の二人の対立が激しくなった。その時の森家の当主・長可は義父である池田恒興に同調し秀吉につこうと決めた。
【森家を継ぐ】1584年、小牧・長久手の戦いが起こると、長可は秀吉有利と見て羽柴軍につくが、徳川軍を奇襲しようとして失敗し逆に討ち取られてしまう。そのため忠政が金山城主となる。
1600年春、家康は忠政を自陣営に取り込もうと、信濃川中島14万石に移封させ恩を売っている(川中島は本能寺の変まで長可の領土だった)。忠政は海津城に入城し、そこを待城(松代)と名前を変えた。関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従軍し真田昌幸の篭る信濃上田城を攻撃し敵兵数百人を討ち取る活躍をしている。
1634年7月7日、上洛する秀忠を迎える奉行に任命され京で指揮を取っていたが、商人・大文字屋宗味の家で桃を食べたところ、それに当たってしまい死亡。享年65歳。京都の大徳寺三玄院に葬られた。
管理人・・・森家の中では地味で目立たない人なんですが、忠政がいたおかげで森家は近世大名として存続しています。戦での活躍はあまり分からないですが、兄譲りの勇将だったんでしょう。築城の名人だったらしく頻繁に奉行に命じられています。 参考文献:戦国の雄 森忠政考・三百藩藩主人名事典・戦国人名事典 コンパクト版 UPDATE 2002年2月14日Copyright (C) 2002 Tikugogawa. |
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