高田吉次

(たかだよしつぐ)

生没年:1590年〜1671年/ 身分:豊臣軍の一員/ 官位(通称、号):又兵衛

高田又兵衛の墓
北九州市小倉北区京町4丁目4−37の生往寺にある高田又兵衛の墓

 通り名は高田又兵衛。高田吉春の子として伊賀に生まれる。幼い頃から武芸に優れた才能を示し、槍術の大家・宝蔵院胤栄に槍術を学び、彼から印可(免許状)を与えられた。その後、修行の旅に出たが、大坂の陣が起こると父・吉春と共に大坂に入城する。夏の陣で父は戦死したが、吉次は大坂城を脱出して、江戸で町道場を開いていた。
 1623年に小笠原忠真に仕え明石に移り、1632年に小笠原家が移封になるとそれにも従い小倉へ移る。島原の乱が起こると一部隊を率いて従軍し、原城総攻撃の時に一番乗りの功を立てた。1651年、徳川家光の前で弟子と共に槍術の演武を披露し、家光が深く感動したと言われている。1671年1月23日死亡。

管理人・・・吉次は槍術の達人で94回試合し一度も負けたことがないそうです(宮本武蔵に負け説有り)。その実力もあって藩内で出世していったそうです。槍術以外も優れていたんだと思いますが。
 子孫は代々宝蔵院流の指南役で、8代目の人は西南戦争で陸軍大尉として戦って戦死しています。

参考文献三百藩家臣人名事典・豊前人物志・図解雑学 宮本武蔵

UPDATE 2002年8月23日
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