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亡くなった一忠には正室にこそ子がいなかったものの、一忠急死時に京都屋敷の側室に子が一人と(正室に遠慮して届けていなかった)、米子の側室に妊娠7ヶ月の子供がいた。両方とも男の子だったので、矢野正倫と彼の弟の正綱はなんとか中村家を再興させようと、正倫は京都の兄を、正綱は弟の米子の子を盛り立て動き始めた。
1614年11月26日、その砦を佐竹義宣軍が攻撃を開始。激しい銃撃戦が繰り広げられた。佐竹軍はわざと鉄砲を上に向け後ろの方に銃弾が落ちるようにしていたので、後方の兵は臆してしまい先頭の後詰になかなかいかない。それを見た佐竹軍は柵に迫り接近戦を挑んだ。正倫も奮戦したものの兵力差が大きく戦死してしまう(今福の戦い)。 【その後の中村家】ちなみに中村家は弟の正綱が一忠の母の実家であった鳥取藩主・池田家を頼り、陪臣ながら再興に成功している。京都の兄の子ははっきりしたことは分からないが九州の大名の家臣になった、京都で出家したなどの説がある。 管理人・・・失敗こそしましたけど、徳川・豊臣両方に再興を頼んだ点はなかなかかも・・・。 参考文献:因伯大名の戦国時代・大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略 UPDATE 2001年7月18日Copyright (C) 2001 Tikugogawa. |
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