足利義昭様と毛利家のために軍費を出してほしいですが免除します(防府天満宮文書の忠朝外三名連署書状)

・原文
就今度(欠字)公方様(足利義昭)被成御下向儀、防長両国諸寺社御半済之儀、雖被仰懸候、当社大専坊之儀者、別而之御祈念所与申、従前々半済等無之証文明白候、殊当時依御不知行、少分限之御理具承分候、自余相替儀候之間、御半済相除申候、恐悼謹言、
天正七年十月晦日
舜雅
忠重
元綱
忠朝他行
大専坊 御同宿人々御中 長家

・読み下し
今度公方様御下向なられの儀について、防長両国諸寺社御半済の儀、仰せ懸けられといえども候、当社大専坊の儀は、別してこれを御祈念申し与えるところ、前々より半済等これなく証文明白候、ことに当時より御不知行、少分限の御理つぶさに承分候、自余相替え候の間、御半済相除き申し候、恐悼謹言

・意訳
この度、足利義昭様が備後鞆の浦に下向されたため、防長両国の全ての寺社に対し半済(※1)を命じられました。ですが防府天満宮の別当寺・大専坊については特別に(義昭様と毛利家の武運の)祈念をする場所であり、昔からの慣例に従って半済等の税金がかけられないことは証文により明白です。ことに最近は領地の知行ができず収入が少ないという事情は詳細に承知しております。他の寺社とは事情が違うため、替地が用意できるまでは半済の対象から除きます。恐悼謹言

※1 幕府や大名などが軍費を調達するために特定の寺社本所領、国衙領などの年貢の半分を一年をかぎって武士に与えた制度

・感想
 天正4(1576)年、織田信長と対立していた足利義昭が毛利領内の鞆の浦に来て毛利・織田の戦争が始まって3年目の文書です。この月の前年、毛利家は宇喜多直家と南条元続に裏切られ、山陰・山陽での戦線が大きく後退した時期でした。そこで勢力挽回のため半済を命じて軍事費を調達したのでしょう。
 私は詳しくないですが毛利家も懐事情が厳しく、織田信長と戦争は金銭面でも非常に苦労していたようです。

(広島県福山市鞆町の鞆の浦)
鞆の浦