●肥前 浜城(島原城)
住所:長崎県島原市新町1丁目
駐車場:なし
遺構:不明
標高:6メートル/比高:0メートル
寛政4年(1792)の雲仙岳の噴火とそれに伴う大津波が発生で地形が変わり(いわゆる「島原大変」)、浜城の遺構は埋没してしまった。そのため正確な位置は不明であるが、現在の弁天町付近にあったと推測されている。当時の記録に「島原の城」と記されているのは、浜城を指している。
築城年代、築城者は不明だが、永禄6年(1563)に有馬氏の家臣で浜城主だった島原純豊が、浜城近くの岬に教会用地として与えたとルイス・フロイスの『日本史』に記されている。
天正6年(1578)、龍造寺隆信が島原半島に侵攻してくると島原純豊は主家の有馬氏を裏切り、龍造寺氏に寝返った。天正12年(1584)3月15日、有馬・島津連合軍が浜城を包囲すると、龍造寺隆信は輸送船団を島原港に向かわせたが、連合軍による海上封鎖のため入港できず、やむなく深江城に向かった。だが、そこでも有馬軍に阻止され物資を奪われている。
隆信は自ら軍勢を率いて島原に出陣したが、沖田畷の戦いで敗北し戦死した。そのため、浜城は落城し島原純豊は捕らえられ薩摩に送られて殺害されたという。
その後、浜城は島津氏が管理したが、天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州攻めで島津軍が南九州に撤退すると再び有馬氏の城となった。
元和2年(1616)、松倉重政が島原に移封されると浜城に入ったが、森岳(島原城)に城を築いて移ったため、その時に廃城になったと思われる。
(城址碑。寄贈されたのは神奈川県在住の島原氏の後裔の方のようだ)

(あとは城址碑のある中央公園を散策したが遺構らしきものは何もなかった。ここはかつて島原市立第二小学校があった)

参考文献:長崎県の地名、日本城郭大系 第17巻、戦国人名事典、島津四兄弟の九州統一戦、現地の案内板
感想:沖田畷の戦いの発端となった場所と言えますが、碑以外は何もないのが寂しい・・・。





