山中鹿介幸盛は便所から糞尿まみれになりながら脱出したのか

 山中鹿介といえば伯耆尾高城の厠から脱出した話が有名である。鹿介の不屈の精神、もしくは揶揄する時に使われる逸話だが、実際はどうだったのか。

元亀3年(1572)3月11日付の『出雲尼子資料集 1748』の『牧尚春書状写(「島家遺事」所引森藩島家文書)』には「就中亀井(山中)鹿介去秋此表被取退候、隠州為ト祇今者但州在身候」とあり、脱出の経緯は不明だが去秋(捕まった年の秋)に此表(出雲、伯耆、美作周辺ヵ)から撤退して隠岐を経由し但馬に身を寄せたようだ。

 これだけだと何も分からないので軍記物の記述をいくつか箇条書きにしてみた。

・陰徳太平記:(どこかに幽閉された鹿介は)或る夜以の外赤痢を煩へりとて、厠へ通ふ事宵より鶏鳴に至て、百七八七度に及けり、番の者共初こそ心をも付けれ、後は坐に油断して有ける程に、鹿助方便得ぬと思ひ、厨の樋を潜り逃け出、大山の麓を経て、美作の国へぞ立退きける
 意訳:ある夜、ひどい赤痢を患っていると言って朝から晩まで百七、八十回も便所に通った。見張りも次第に油断したため、良い手段を得たと思い、厨の樋(厠の中にある大小便を受ける器)を潜り抜けて脱出した

・安西軍策:(尾高に幽閉された)鹿助イカニモシテ抜ハヤト思ケルカ或夜深更ニ警固の武士少打眠リケル隙に抜出テ大山ノ麓ヲ経美作ノ国ヘト逃上リケル
 意訳:鹿介が脱出の手段を考えていたところ、ある夜更けに警固がうたた寝をしたので抜け出した

・雲州軍話:尾高ヲ忍出

・雲陽軍実記:或日赤痢を煩うと称して昼夜七八十度厠へ行けるに、番人も最早退屈して左迄は不附行故、頓て厠より透垣を越て底樋の水門を抜出、無伯州黒坂へ越夫より仁多岩屋寺山に隠れ籠ける
 意訳:(どこかに幽閉された鹿介は)ある日赤痢を赤痢を患っていると言って昼夜七、八十回も便所に通った。番人もすっかり退屈して、最後まで着いてこなくなったので、厠の透垣(柱の間に通した貫(ぬき)の表裏から細板または割竹を交互に打ち並べたもの)を越えて下水道の水門を抜け出た。

 陰徳太平記では器が置いてあるところを抜け出ており、糞尿に触ったかどうかは不明。雲陽軍実記では恐らく汚物も流れている下水道を通って水門を抜けて出ているので、糞尿には触れたと思われる。安西軍策と雲州軍話は脱出しただけで詳細は不明である。
 雲陽軍実記は前後に陰徳太平記と似たような記述があることから(鹿介が吉川元春に四国の長宗我部氏や九州の大友氏の領国を切り取って見せるから助けてくれと懇願するシーンなど)、陰徳太平記の話を膨らませたのだろう。

 年代別に並べる、他の軍記物も記載すれば話が作られた経緯が分かるかもしれないが、それは他の人に任せる。何の結論も出ていないが以上!

(鹿介が幽閉されていたと伝わる尾高城の中の丸。厠から脱出の話が本当なら、ここから何度も通ったのだろう)
尾高城