渋江政光

(しぶえまさみつ)

生没年:1574~1614年/ 身分:佐竹家の家臣/ 官位(通称、号):内膳

渋江政光の墓
京都府京都市下京区富小路通五条下る本塩竈町558の本覚寺にある政光の墓

【養子】荒川秀景の息子で最初、荒川弥五郎と名乗った。荒川氏は下野の豪族・小山氏の家臣だったが小田原征伐で小山氏が所領を没収されたため政光は浪人となった。後に人見藤道の推挙で佐竹義宣の近侍となり、1593年には渋江家の養子となって渋江内膳政光と名乗り3000石を与えられる。

【身代わり】1602年の久保田移封後は領地の経営に携わり多大な影響を与えた。大坂冬の陣に従軍する。今福の戦いで佐竹軍は当初、豊臣軍を押していたが、木村重成後藤基次が反撃に出ると佐竹軍は大苦戦となり、当主の義宣も危険な状況に陥った。
 そこで政光は義宣をかばって被弾し死亡する。享年41歳。法名・全良寺殿孝山政光大居士。墓は京都市下京区の本覚寺と秋田市の全良寺にある。この政光の功で子孫は永代家老の地位を約束された。

管理人・・・政光の残した『渋江田法』では田んぼの生産量を4ランクに分け、それらによって税率を決めました。他にも収入の3分の2を生計にあてて残りを蔵に貯蔵すること、土地の売買は禁止、などを定めて佐竹藩は明治時代まで安泰を保っています。その『渋江田法』は久保田城の金蔵に納められて非常に大事にされたそうです。

参考文献三百藩家臣人名事典大坂の役・秋田人名大事典

UPDATE 2003年11月27日
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