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朝鮮出兵の際には、晋州城攻略の一番乗りを果たし、3千の黒田軍が3万もの明軍に囲まれたときも、基次のおかげで危機を脱し黒田家中で1番の活躍を見せた。関ヶ原の戦いの時も、東軍に属した黒田軍を勝利に導いている。その戦功で黒田家筑前52万石のうち、大隈1万6千石もの大封を与えられた。 【黒田家出奔】しかし新しい主君・黒田長政とうまくいかず1606年に出奔してしまう。しかし剛勇で知られた基次だったので、すぐに他家から声がかかる。まずは細川忠興から声がかかるが長政の横槍で立ち消えとなる。その後、福島正則・前田利長・結城秀康などからも誘いがあるが、すべて長政のために駄目になった。流れ流れて最終的に京にたどり着いた基次は、軍学教授や全国の大名からの援助で糧を得る。
冬の陣では大野治長と共に遊軍として布陣。今福の戦いで基次を慕う木村重成と組んで、上杉景勝・佐竹義宣の両軍と激戦を繰り広げている。
【道明寺に散る】翌年の夏の陣では、基次は大和方面から進撃している徳川軍を討つため国分を目指す。5月5日に真田幸村・毛利勝永と決別の盃を交わし、6日未明、出撃。そして道明寺で水野勝成・伊達政宗・本多忠政軍と遭遇。小松山を舞台に戦闘が開始された(道明寺の戦い)。数に勝る徳川軍に次第に押されていく後藤隊を見て、基次は死を覚悟し敵陣への突撃を敢行する。その最中に銃弾に胸を打たれ、家臣に介錯させている。
又兵衛は黒田家の家臣として子供達に領地を譲って隠居して死んでいくのと、戦場の露と消えるのと、どちらが本人にとって幸せだったんでしょうか? 私は個人的には、歴史通りの方が幸せだった気がします。子孫もちゃんと生き残って血筋を伝えていますし。とにかく「漢」って感じの又兵衛さんの紹介でした。 参考文献:真田戦記・戦国人名事典 コンパクト版・大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略・大坂の陣名将列伝・大阪城の七将星、ほか UPDATE 1999年9月15日Copyright (C) 1999 Tikugogawa. |
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