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【決戦・関ヶ原】1600年、関ヶ原の合戦がおこると、昌幸と幸村は石田三成の西軍についた。1600年9月5日、真田親子は中山道を通り関ヶ原へと急いでいた徳川秀忠軍3万8千を釘付けにし、ついには主戦場への到着を遅れさせると言う大戦果をあげる。しかし主戦場の関ヶ原で西軍が敗北したため、所領を没収、紀伊九度山(最初は高野山)に蟄居することになった(本当は死罪を秀忠が主張していたが、信之の必死の嘆願で、それだけは免れた)。
【武勇轟く】1614年10月、豊臣家に味方になるよう誘われた幸村は了承し、九度山を脱出して大坂城に入った。そこで幸村は出撃策を提案したが却下され、籠城となったので、防御の弱い大坂城の南側、三の丸南に出城(通称『真田丸』)を構築する。
おのれを責める幸村であったが、徳川軍はそんな彼の心情とは関係なく遅れてきた彼らに襲いかかった。ここで真田隊は伊達政宗軍を迎え撃つことになった。だが、これも幸村の味方の心理を把握した的確な指示で逆に撃退している(道明寺の戦い)。この後、撤退する豊臣軍を徳川軍で誰一人追ってくるものはなく「関東勢には男が一人もいないのか」と言ったのはあまりにも有名である。
【日本一の兵(ひのもといちのつわもの)】大坂城南に徳川軍が終結した5月7日、幸村は家康の首を取る秘策のために豊臣秀頼の出撃を乞う。だが、これも淀殿の反対で中止になってしまう。それでも最後まで希望を捨てず、徳川軍本陣に向かって真っ直ぐに突撃を敢行する。この時の幸村の活躍は、最後の意地を見せた豊臣軍の中でも一番目立っており、徳川家康を三里(約12キロ)も敗走させ、切腹を覚悟させることもあるほどであった(天王寺・岡山での最終決戦)。しかし結局は後詰のない豊臣軍は疲れのため全滅し、幸村も疲労の為に安居神社で休んでいるところを西尾宗次に討たれ生涯を閉じる。
この「大坂の陣絵巻」のコンセプトは「大坂の陣で活躍したのは幸村だけじゃない!」ってのもありますから、良ければ他の人の紹介も見て下さい。以上、誰もが知ってる人気者、幸村さんでした。時代が変わっても彼の名前だけは永遠に人々に忘れられることはないでしょう。 参考文献:大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略・奮迅真田幸村―戦国でもっとも強い漢・真田戦記 UPDATE 1999年10月16日Copyright (C) 1999 Tikugogawa. |
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