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そして秀長の元で、三木城攻め・亀山城攻め・鳥取城攻め・賤ケ岳の戦い・小牧長久手の戦いなどで着実に戦功を上げ、1587年の九州征伐の後、紀伊国内で2万石を与えられた。1591年に秀長が亡くなると、その養子・秀保の後見人となる。朝鮮出兵では、秀保の代わりに朝鮮に渡り李舜臣らと戦った。しかし1595年に秀保が大和十津川で溺死すると、責任を感じた高虎は高野山にのぼり剃髪する。だが秀吉に呼び戻され、伊予宇和島7万石を与えられた。そして再度、朝鮮へ渡海し巨済島で朝鮮軍を破っている。
他にも江戸に弟の正高を人質として送るなど、徳川家に対して献身的に尽くす。関ヶ原の戦いでは、大谷吉継や石田三成らと戦い勝利に貢献した。その功で伊予今治20万石に加増された。その後、二条城の修築などで功があり1608年には豊臣家への抑えとして伊勢津22万石に移封される。津に移封された高虎は伊賀上野と津城の改修をし豊臣軍に備えた。
しかしその苦労が実を結び大坂城が落城した後、32万石に加増され、従四位下に叙せられる。1616年に家康が亡くなる際に先陣となるように命じられた。晩年は眼病のため失明する。1630年10月5日死亡。法名・寒松院殿道賢高山権大僧都。津市寿町の寒松院に葬られた。
大坂の陣は大変でしたね。徳川軍にとっての冬の陣最大の負け戦、真田丸の攻防に参加させられるは、夏の陣では八尾の戦いで盛親に徹底的にやられるわで。藤堂家にとって大坂城は鬼門だったんでしょう。経歴を見る限り戦上手な人だったと思うけど運が(もしくは相手が)悪かったんでしょう。以上、築城の名人として有名な藤堂高虎さんでした。 参考文献:大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略・戦国人名事典 コンパクト版・戦国大名諸家譜・三百藩藩主人名事典、ほか UPDATE 2002年2月13日Copyright (C) 2002 Tikugogawa. |
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