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しかし1585年に豊臣秀吉の紀州征伐で豊臣政権下に組み込まれてしまう。それでも国主となった豊臣秀長は厳しい統制をせず土豪層の権益がある程度守られたため一部を除いて表立って反抗することはなかった。 だが関ヶ原の戦い後に新しく国主となった浅野家は、27万石だった石高を徹底的な検地で隠し田が摘発したりするなどして37万石にまで地積を増加させたため、紀州人は浅野家に対する激しい恨みを抱いた。
それでも一揆勢は湊惣左衛門を首領として日高・名草郡などで再び蜂起するが、和泉から引き返してきた浅野軍に各個撃破されすぐに鎮圧された。首謀者で生き残ったものは探し出されて次々と処刑され、最終的には49ヶ村・806人が処分された。これ以降、紀伊の土豪層は完全に抑え付けられ反抗できなくなってしまう。
日高・名草一揆で一揆勢が和歌山城を攻めて、それを浅野軍が奇計(本丸だけに兵を集め撤退したと思わせて一揆勢を城の中に誘い込み、これを殲滅した)で撃退したのが有名ですが、どうもこの話は怪しいみたいです。 豊臣軍は夏の陣では兵が少しでも欲しかったのか、浅野家に関西の5ヶ国を与える約束(内3ヶ国は家臣達へ)をしていたそうですが断られています。以上、紀州人が意地を見せた紀州一揆でした。 UPDATE 2002年8月2日 Copyright (C) 2002 Tikugogawa. |
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