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1613年に紀伊和歌山の大名であった兄・幸長が亡くなると彼に子供がいなかったため、その後を継いで浅野家の当主となる。この時、2万4千石からいきなり38万石の大名となることに問題はないか、長晟の弟・長重の方がいいのではないか、などという意見があり浅野家は二つに分かれるが長晟の母が彼を支持したので解決している。
【苦労続き】翌年、大坂の陣が起こると、豊臣家の誘いを断り、徳川軍の一員として7000の兵を率いて船場口に陣を敷き、木津川口の戦いで奮戦した。また国許で熊野一揆(紀州一揆)が起きたが、これは家臣の活躍で鎮圧している。
広島に移った長晟は四人の家老をそれぞれ三原・三次・小方・東条の重要拠点4ヶ所に配置しようとしたが、これに対して三次の守備を命じられた浅野良重が反発し屋敷に立て篭もってしまった。父・長政の甥だった彼は以前から長晟に反発していたため、当主への権力の集中のため、良重を謀殺し騒動を解決させる。 その後、長晟は領土の発展に力を尽くし、農村支配の基本となる『郡中法度』の発布、城下町への人口流入を黙認し商業経済の発展の促進、また海運業に力を注ぐなど、現在の広島市の基礎を築いている。1632年9月3日死亡。享年47歳。遺体は長晟自身が創建した国泰寺に葬られた。
長晟が大名になった際に長政が注意を促した文章が残っています。その内容は『兄の幸長は今のお前の年くらいには立派な武将に成長しており、親孝行な息子だ。それに対してお前は無心をするし心配ばかりかける。大名になったのを機会に諸事慎むように』というもので、苦労せずに育った長晟のことを心配しています。戦国時代が終焉に向かっているころに生まれたので、どうも頼りなかったんでしょうね。以上、大坂の陣で奮戦した浅野長晟さんでした。 参考文献:三百藩藩主人名事典・戦国人名事典 コンパクト版・戦国大名諸家譜・大坂の役・和歌山県史、ほか UPDATE 2003年1月29日Copyright (C) 2003 Tikugogawa. |
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