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【商都・堺】堺は古くから西高野、熊野などの街道が通じ鎌倉時代からは瀬戸内海の要港として知られていた。室町時代になると対明、対南蛮貿易が盛んとなり、戦国時代にはその経済力を背景に自由都市を形成する。しかし織田信長の侵攻に降伏し直轄地とされ、その跡を継いだ豊臣秀吉・徳川家康もここを直轄地とした。
しかしこれが豊臣軍に知られてしまう。そこで宗薫は茨木城の片桐且元に保護を依頼したが、これも堺市民によって密告されてばれてしまい、10月12日、豊臣軍の槇島重利・赤座直規・新宮行朝らが先手を打って堺に進撃してきた。芝山正親は兵が少なかったので弟の正綱を堺に留め置いて自身は小出吉英を頼り岸和田城へ落ち延びる。この時に宗薫・宗呑親子も誘ったが「片桐軍がこのまま来ると全滅するかもしれない。茨木にこのことを知らせた後、堺に戻る」と言って断られた。
【交戦】10月13日、豊臣軍300が堺政所を攻め、正綱を討ち取り占拠し軍需品を徴収した。同じ日に且元も多羅尾牟左衛門ら200を尼崎から船で堺に向かわせ上陸させる。しかしすでに堺は占領されており、付け入る隙がないので、片桐軍は宗薫の家に逃げ込んだ。そこを豊臣軍が取り囲んだため、留守をしていた宗呑は屋敷の外に火を放ち、片桐軍を逃がそうとしたが、退路を絶たれており全滅してしまう。
この冬の陣で豊臣軍が堺市街で乱暴狼藉を働いたため、市民の心は徳川家に大きく傾いた。ただ堺は大坂に近いため、はっきりと徳川側と主張することが出来ず「足を両鐙に置かんと欲した(『宣教師の報告』)」という二股をかけた状態を取った。傭兵を雇って戦国大名に対抗した昔日の面影はなく、武力を持たない商業都市としてはそのような行動に出るのも仕方がないところであろう。
4月28日、豊臣軍は和歌山の浅野長晟を攻めるために大坂城を出撃し(樫井の戦い)、そのついでに大野治胤は堺に向かい、火を放って市内を焦土と化した。この時の炎は大坂からも見えたほどだったという。これを聞いた徳川軍の向井忠勝・九鬼守隆が船で救援に向かったが、堺に駐屯していた豊臣軍の激しい攻撃を受けて撃退され忠勝も負傷している。だが樫井の戦いで豊臣軍の本隊が敗北したため、駐屯していた豊臣軍も大坂城が引き上げていった。 この焼き討ちで堺は壊滅し、その後徳川家が復興に手を貸したもののそれまでのような繁栄は取り戻せなかった。
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