≫
人物一覧・
合戦一覧・
四方山話・
合戦地図一覧≫
【合戦の解説】
|
しかしここに来てもまだ希望を捨てない男達がいた。真田幸村・毛利勝永らである。5月7日早晩、幸村は大野治長の陣を訪れ、勝永も加わって3人で作戦を話し合った。その内容は『全軍を茶臼山から岡山口に並べて敵を引き付け先鋒を撃破する。そして豊臣秀頼が出陣し徳川家康の本陣を目指す。それと同時に明石全登隊が迂回して家康の背後に回り込み、とどめを刺す』というものだった。その決定を全軍に知らせ陣容を整え徳川軍を待ち構えた。
【戦国最大の野戦】一方の徳川軍も5月6日の戦いで藤堂高虎などが損害を出したが、大半は無傷のまま大坂城に向かって進撃していた。5月7日の真夜中、総大将の徳川秀忠と家康は前日の戦場を視察した後、大坂城を目指し、午前10時に平野に着いて陣を構えた。諸将も夜中に出発し、午前中には大坂城南に陣を構えた。ここで両軍の編成を見てみよう。
徳川軍の兵力(南側のみ)
戦力差は3対1。豊臣軍が勝てる可能性はほとんどなかった。
しかもそこに小笠原秀政隊が割り込んできて大混乱となってしまう。大将の忠朝が自ら槍を振るって味方を叱咤するが、本多隊の敗走は止まらない。それでも忠朝は奮戦するが狙撃され馬から落ちてしまう。忠朝は狙撃兵を殺してなおも奮戦したが、毛利隊が押し寄せて20箇所以上の傷を受け、遂には雨森伝右衛門に首を獲られてしまう。そのため本多隊は壊走した。 その頃、毛利隊の右の部隊は秋田実季・浅野長重隊らを撃破し、左の部隊は本隊と共に真田兄弟隊に猛攻撃をかけた。真田兄弟は奮戦したものの、毛利隊の勢いには勝てず敗走した。この時に真田の家臣・森佐野衛門が信吉の身代わりになって銃弾を受けるというほどの苦戦を強いられている。
これに対して大将の小笠原秀政は槍を振るって奮戦したが、敵の勢いは止まらず、長男の忠脩を討ち取られ、自身も6ヶ所に傷を負って撤退した(彼はその夜に死亡)。次男の忠真も池に突き落とされ重傷となったが、撤退に成功し一命は取り留めている。これにより小笠原隊は指揮官を一度に失い全隊が撤退していった。そして保科正光隊も毛利隊の攻撃で大将の正光が怪我を負い撤退した。 その頃、毛利の本隊は第二陣の残り、榊原康勝・仙石忠政・諏訪忠恒隊に攻撃をしかけていたが、これらの隊は毛利隊のあまりの勢いに耐えられず、すぐに敗走。残った兵は次々と討ち取られていった。 【徳川本陣へ】次に毛利隊はその後ろに控えていた酒井家次・相馬利胤・松平忠良ら5300余りの隊に攻撃を開始した。これらは小大名の集まりで統制も取れていなかったため、毛利隊の相手ではなく次々と敗走していった。そして遂に毛利隊は徳川家康本陣に突入した。
そしてしばらく様子を見ていたが、毛利隊の善戦で徳川軍天王寺方面の第一陣・第二陣が敗走するのを見て好機と思い、3500の兵を率いて茶臼山から目の前の松平忠直隊15000に突撃を開始した。これに合わせて大谷吉治・渡辺糺・伊木遠雄隊2000も松平隊に突撃を開始し、たちまち大混戦となった。
しかし後がない真田隊の戦意が勝り松平隊は徐々に押されていった。しかも後方にいた浅野長晟が今宮に移動するのを見て「浅野隊が豊臣軍に寝返った!」という虚報が流れ、裏崩れ(前線から崩れていくのではなく、後方から崩れていくこと)が起きて徳川軍は混乱し、兵が忠直の周りにまで雪崩込んで来た。この状況を打開するために家康は旗本衆を援護に向かわせたが混乱は収まらず、兵は次々と敗走・戦死していった。
【家康はどこだ!?】その時に毛利勝永も家康の本陣に突入したが、すでに幸村によって蹂躙された後だった。必死に家康を探す勝永だったが、どうしても見つからない。そこに本多忠純隊が攻撃してきたが、一撃で撃退した。家康本陣はこの幸村・勝永の同時攻撃で敗北寸前となったため、岡山口の藤堂高虎隊と井伊直孝隊が救援に向かった。本陣に着いた藤堂隊は毛利隊を側撃、しかしこれも一撃で撃退され敗走した。次に井伊隊が攻撃してきたが、毛利隊は岡山口で戦っていた真野頼包らと共に撃退した。
【撤退戦】撤退中に毛利隊は土手に火薬をしかけておいてそれを爆発させ、それを合図に七手組と共に反撃に転じた。これにより藤堂隊を破ったが、雲霞のごとく押し寄せる徳川軍を支えることが出来ず城内へ引き揚げた。 【飛燕・明石隊】その頃、明石全登隊300は船場で秀頼の出馬を待っていたが、いつまで経ってもそれがない。そうこうしているうちに豊臣軍が敗北し孤軍となってしまった。そこで毛利勝永隊の援護に向かい、追撃していた松平隊を攻撃してこれを崩し、その後ろにいた水野勝成隊に襲い掛かった。全登は奮戦し水野隊と激戦を繰り広げるが、多勢に無勢。敗色が濃くなり血路を開いて脱出した。
これに対して徳川軍の阿部正次は「味方は遠いところから来たので日焼けして鎧なども汚れて汚い。敵は日に焼けてなく鎧もきれいた。これを目印にしろ」と指示した。当初は拮抗していた両軍であったが、気迫が勝っていた豊臣軍は次第に徳川軍を圧倒。治房は一部を迂回させ遂に秀忠の本陣に突入させた。 【秀忠本陣を強襲】これを阻止しようと酒井忠世と土井利勝の隊が立ちふさがったが、あっという間に蹴散らされ、大野隊は本陣に迫った。これに対して秀忠は自ら槍をとって戦おうとしたが、安藤重信にこれを止められた。この時の混乱は、後に徳川軍の兵士達が「かかれ対馬(安藤重信)、逃げ大炊(土井利勝)、どっちつかずの雅楽頭(酒井忠世)」と馬鹿にしたほどだった。奮戦する大野隊だったが、残っている隊が前田隊に押され始めたため耐え切れなくなってきた。しかたなく治房は撤退を決め軍を終結して大坂城に退いていった。
【城内に乱入】5月7日午後4時、天王寺と岡山の両方で豊臣軍が敗北したため、徳川軍は遂に城内に乱入。大坂城の東北に陣を敷いていた京極忠高・石川忠総らは豊臣軍の敗北を知って備前島へ進撃し、天満方面に陣を敷いていた池田利隆も同じく進撃を開始した。豊臣秀頼は敗北を知って、出馬して戦死しようとしたが、速水守久に止められ出馬を取り止めた。その後、裏切り者が城内の台所に火をつけ燃え上がったため、これを見た徳川軍は城内に殺到。豊臣軍の兵達は次々と逃げ出し大坂城は徳川軍の手に落ちた。翌日、秀頼一行も自害し豊臣家は滅亡した。
では、合戦に関する感想を色々書いてみようと思います。まずはなんと言ってもかっこいいのが、この合戦の主役・毛利勝永です。 僅か5000の手勢で、16の部隊、合計20000の部隊を撃破か撃退させています。見事です。しかも奇襲じゃなくて真正面から突っ込んでですから。まさに『毛利日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由』ですよ。
あと岡山口で奮戦した大野治房も素晴らしいと思います。秀忠軍をあそこまで危機に陥れているんですからもっと評価されてもいいと思います。 最後に。これで合戦一覧は終わりです。最初から見ていただいた方、お疲れ様でした&ありがとうございました。 UPDATE 2002年12月25日Copyright (C) 2002 Tikugogawa. | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
≫
人物一覧・
合戦一覧・
四方山話・
合戦地図一覧≫
【合戦の解説】
|